宮崎訪問記(平成9年12月)宮崎ロータリークラブ
宮崎旅行記
宮崎へ 平和台公園 宮崎神宮
鵜戸神宮 シーガイア 綾町・綾城
高岡町・天ヶ城 西土原(さいとばる)古墳 うなぎ 「入船
航空自衛隊・新田原(にうたばる)基地 初めての宮崎

宮崎までの計画変更


松戸RC前期5月、プログラム委員長藤原君が宮崎支店長として転勤した。藤原君とはプログラム委員長とのほかに、IM、国際シンポジウム、また紅灯の巷においても大いに接触があったのだが、送別の会の際の藤原君の「ぜひフェニックスへ」を、一緒にいた伊原君はしっかりと受け止め、着々と計画を立て、12月9日〜10日に本当に行くことにしてしまった。一行は伊原君、田中君、中山君、常盤君、そしてフェニックスとは縁のない小生である。

12月8日は火曜日。
「せっかく行くんだから休みの7日(月曜日)から行けばいいのに・・」という家族の薦めに「そりゃそうだ」と思い、それなら熊本には前々年度に転勤退会した八島君が○○銀行熊本支店長としているのだから、7日にまず熊本に行って、「むつごろう」(有名な馬刺し屋)の馬刺しと焼酎で一杯やって、翌日宮崎で皆と合流すればいいと思い、田中君に連絡したところ、田中君が「俺も行く」というので、伊原君がすでに手配してくれた航空券を2枚をキャンセルした。
さて熊本の八島君に電話連絡したところ、「申し訳ありませんが八島は東京本店に転勤になりました」とのこと・・・・。

しまったと思ったが、いまさら田中君に言うのも昨年の会長の沽券にかかわる。といって八島君のいない熊本に行っても仕方が無い。さて、どうしようかと思っていたが打つ手があった。

国東には柳仙育英センターで勉強していたころからの知人、悦ちゃんがいる。国東には2〜3年前に行って、日出(ひじ)の「的山荘」の城下カレイと「臼杵」のフグに連れて行ってもらい、大感激した思い出がある。
ならば田中君を「熊本へ行くフリをして」大分へ連れて行き、別府・明礬温泉の泥湯に入れ、そのあとカレイかフグで一杯やる。湯上がりの一杯をやった後、大分から日豊線で宮崎に行き、藤原君と会う。
国東に連絡したところ、プランをFAXしてくれた。これなら田中君も絶対に満足してくれるはず。忙しい1日なので、羽田は7時半の一番機だ。

飛行機に乗る寸前に「行き先は大分」と告げたところ、田中君は細い目を丸くしたが、あきらめた様子。
この大分行きの便が墜落して、臨時ニュースが流れても、田中君の家族が「うちの行き先は熊本だから・・」と安心の矢先、テレビに「タナカタダユキさん」の名前を見つけた時の皆の驚きと悲しみはどんなだろう・・・と思うと少々責任を感じたが、9時、無事大分空港にタッチダウンで一安心。
空港に悦ちゃん夫妻が待っていてくれた。

日出の「的山荘」は予約が一杯で取れなかったそうだ。的山荘は明治の金山王の別荘を使った料亭で、カレイもいいが建物だけでも一見の価値があるものだが仕方が無い。でも臼杵の「にしきや」のフグも決して負けてはいない。

臼杵

計画通り、まず別府・明礬温泉の泥湯に行き、臼杵のフグで一杯の「下準備」のため、ヘトヘトになるほど「泥湯」にまみれる。別府名物・海岸の砂湯ではなく山上にある何種類もの「泥の湯」なのだが、比重の関係で「死海」のように体が浮く。
初めは気持ち悪がった田中君もご機嫌な様子。入浴後悦ちゃんの車で臼杵に向かう。

臼杵は斉藤道三、信長の家臣として仕えた稲葉一徹(頑固一徹として有名)の子孫貞通が関ヶ原のあと岐阜から移封されたところで、二度目の訪問だ。石仏で有名だが、小生はあまり興味が無く、石仏の形をした焼酎のボトルは知っているが、本物はまだ見ていない。

しかし臼杵の魅力は町並みである。
臼杵川の河口にある臼杵は古い武家屋敷や、都市再開発等という野暮なお役所仕事の被害を受けず、臼杵藩以来手を加えられてない路地といっていいような小道の両側に、ナマコ壁の古びたたたずまいが続く。豊後水道の潮で鍛えられた上質の魚は臼杵湾にあがり、長く続く小道の両側にはひなびた、でもうまそうな魚料理の小店が軒を連ねている。

予約した時間より少し早く着いたので、近所にある「秀吉と利休」の作者・野上八重子記念館で時間をつぶす。野上八重子の実家は古い暖簾の蔵元で、昔のままの建物の一部を記念館にしている。文学にはあまり興味が無いが、この蔵元記念館の雰囲気と、酒の試し飲みが出来ることがいい。記念館の向かいは「分家」の味噌屋。ここも明治以来の店の奥座敷を解放してお茶を飲ませてくれる。

「にしきや」はフグの肝を食べさせる店で有名で、つぶした肝をポン酢に溶かしてフグ刺しを食う。
普通は薄く切ってあって、メインのなべの前菜程度にしか出てこないのがフグ刺しだが、ここのフグ刺しは結構厚く、大きく、またフグ刺しだけで腹一杯になるくらい出てくる。大食い(田中)が来るというので特別にしたのではなく、この前もそうだった。

舌の先がピリッと痺れるくらいがいい、なんて簡単に言うが、フグの肝は歌舞伎の大役者だろうが、いとも簡単に葬る。小生の食べるのを見届けながら、はじめは恐々と一口運んだ田中君だったが、その後は箸をブルトーザーみたいに使い、一気に掬い上げ頬張る。
「味わう」のではなく「頬張る」のだ。
淡白なフグが、濃厚な肝と溶けあったポン酢とからまって口一杯に広がる。

「白子」は別の客が予約した分だけとのことだったが、おかみが少しずつだが別けて、白焼きにしてくれた。ひれ酒、から揚げ、そして納めは雑炊・・・言うことなし。

4時の日豊本線で宮崎に向かう。
いかにも早そうな「レッドエキスプレス」という赤い洒落た名前の特急だが、日豊本線は「単線」で、宮崎までのんびりと3時間もかかる。
九州の東側は、陸路もまだ高速道路が開通しておらず、国道10号線だけで、5時間はかかるそうだ。
北半球・日本では、東南に開けた側がすべてに恩恵を受けているようだが、九州だけは東向きが割を食っている。かつて日本海側は「裏日本」(裏日本は放送禁止用語で、現在は本州の日本海側というそうだ)といわれたが、九州の場合、大分、宮崎は「裏九州」なのか?
しかし、入り組んだ海岸線と、ひなびた港の側を通る車窓の景色はなかなかのもので、ゆっくり走るレッドエキスプレスはちょうどいい。
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宮崎へ

7時に宮崎着。藤原君が待っていてくれた。田中君とのホームでの話し声が改札口まで聞こえたそうだ。宿は宮崎の名所「シーガイア」のなかのコンドミニアムの九階で、窓外は日向灘の海岸線が一望できる。トイレはウォシュレットのデラックスなものだ。

転勤して半年。藤原君の日々の宮崎市の探索の成果のひとつ、気の利いたママさんのいる料理店「幸作」で地ビールと地元料理に舌鼓を打つ。
料理のあと麦飯に汁をかけてたべる「冷や汁」が宮崎の名物だそうで、たしかに飲んで食べた後でも、するするっと入る。
そして次も藤原君の開拓の成果、宝塚風のママさんのいるスナックで、疲れを知らぬ田中君の歌で忙しかった一日を締めくくった。

翌日藤原君が市内を案内してくれる。生まれも育ちも宮崎の会社の運転手さんで、姓を湯地(ゆうじ)さんという、初めて聞いた珍しい名前の方で、藤原君も宮崎の調査にずいぶん世話になっているようだ。

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平和台公園

平和台公園・写真満載九州観光
戦前の写真にはよく登場してきた有名な塔がある公園だが、宮崎市内にあるとは思わなかった。残像にあった巨大な塔の本物が突然目の前に出現してドキッとした。
戦前は日本の国家誕生の聖地、宮崎を象徴する造形物として日本中に知られたものだったが、今では神社庁の広報誌くらいにしか登場してこないこの塔は、昭和15年、紀元2600年を記念して建てられたというもので、「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」というそうだ。
宮崎県高千穂の峰は天孫降臨の地
天の岩戸。日本誕生伝説のメッカ。
そこで、宮崎に白羽の矢が当り、この塔が建てられたのではないだろうか。(宮崎県史などで正確な所を是非知りたいものである)
御幣をかたどったという高さ37メートルの塔で、正面に日本書紀の記述を基にした戦前の日本の根幹思想のひとつ、「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)とする」(宇は屋根という意味だそうだ)という、あの有名な「八紘一宇」の文字が書かれている。

昭和15年〜20年の紀元節には、この広場はどれほどにぎわったことだろう。
しかし、昭和の軍部官僚に悪用されたこの塔の栄光の時代はわずか6年。
戦後、日本の国家誕生伝説の消滅とともに、「八紘一宇」の文字もアジア侵略という、悪玉の代表の呪文として扱われてしまい、塔の中央にお立ちの神武天皇をはじめとする像と一緒に取り外されてしまったとのことである。

どこの国にだって、国家誕生伝説はあるものだ。
韓国にも朝鮮を建国した「壇君伝説」(紀元前2333年、神の子と熊の女の間だに生まれた)があり、1960年は壇紀4293年とのことである。この年で壇紀は終了したそうだが・・
あの共産国家?北朝鮮でも金日成が生前、建国者・檀君の陵墓を復元させた、というニュースを聞いたことがある。

日本はたった一度の敗戦でそれをほぼ完璧に消滅させてしまった。
しかしその後、いかにも役人が付けたような「建国記念日」という妙な名前で復活させた。
このあたりのいいかげんさ(良い加減さ)が、いかにも「日本的」ということか。

「建国記念日」なんて名称にするから、科学的根拠が必要なような気になって、議論が喧しくなるんじゃないだろうか。「紀元節」なら伝説なんだから大威張りのはずだ。
「建国記念日」を「紀元節」と名称変更すれば、宮崎のこの公園も明るく復活するのではないだろうか?

昭和40年代になって、昔通りに八紘一宇も、神武天皇も復元され、平和公園の「平和の塔」という名になったのだそうだが、(これも、いかにも役人が付けたような、いやらしい名前だ)、そうした悲劇の歴史を象徴するかのように、寂しげに、また大きいだけにちょっと不気味に聳え立っている。

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宮崎神宮

地名を付けた神社なので、松戸神社程度のものかと思っていたらトンでもない。
神武天皇がここから東征に出発した、という神社で、初詣の参賀者は日本屈指だそうで、「神武さん」と呼ばれているすごい神社とのことだが、たしかに本殿の前には皇族の記念樹がごっそりと植えられている。


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鵜戸神宮

鵜戸神宮は宮崎からフェニックスの繁る日南海岸沿いの国道 222号線を南下すること約40`、鹿児島県との県境に近い都井岬の付け根辺りにある。

かつて今ほど海外旅行をしなかった頃の新婚旅行のメッカは日南海岸と青島だった。
日南海岸は通称「鬼の洗濯板」と呼ばれる波状岩盤の海岸で、砂浜は少ないが、太平洋・日向灘に面し陽光燦燦、まさに南国の雰囲気である。

神武天皇のおじいさん 「ほでひの尊」の奥さんは鰐(サメ)の化身で(朝鮮の檀君は神の子と熊の間に生まれた。神武天皇の親父さんは鰐と人間の間に生まれた。キリストは処女マリアから・・・)、神武天皇の親父さん「ふきあえずの尊」が生まれた時、うがや(産屋)の屋根を葺くいとまも無くお生まれになった、というので「うがやふきあえずのみこと」と名付たのだそうだ。
大物神様のわりには簡単な命名だ。
その時、産室を見ちゃいけないというのを、「ほでひの尊」が見てしまい、奥さんは海に帰ってしまったとのこと。

わが国には「人口」(宮崎県は百二十万)より、「神口」(八百万)のほうが多い県がいくつもあるが、とくに宮崎は神武天皇の親父さん、おじいさんを含めて大物の神様が揃っている。

大物の神様」が揃っているところは出雲もそうだが、出雲の場合はいかにもなじみのある神話の「因幡の白兎」や「縁結び」だが、ここ宮崎の場合は歴史的な「国家創建伝説地」が強調され、ちょっと難しく感じさせ、しかも戦後は歴史教育の場からは消し去られてしまい、出雲よりいまいちポピュラーでなないのはちょっとお気の毒な気がする。


5 へのリンク

シーガイア

翌日、他のメンバーは待望のフェニックスでゴルフ。

ゴルフなんかどこでやっても同じなんで、なにもわざわざ宮崎までゴルフしに来なくたっていいんじゃないか、なんていうのは、ゴルフをしない奴だけで、ゴルフが好きにとっては、一度はフェニックスでプレーしたい、というようなところだそうだ。




なんせ、プロのトーナメントに使われるコースなので、コースに出ると、プロになったような気になるのか、ティーグラウンドに立った時は、目付きまで変わってくるのだそうだ。特にプロのトーナメントが終った直後は、そうした客が多いらしい。
「やくざ映画」を見て出てきた客が、高倉健のような歩き方になるのと同じか?

「シーガイア」は観光立県をめざす宮崎が第3セクター方式でつくった新名所だ。
ホテル、コンドミニアム、コテージ、ワールドコンベンションセンター、トム・ワトソン ゴルフコース、そして天井の開閉する「オーシャンドーム」等を網羅した大観光事業で、どの設備も超デラックスだが、12月中旬というオフシーズンのせいか、人影は少なかったが、太平洋の水平線から初日の出を拝める年末年始は相当な客が集まるそうである。
充実した設備と引き換えに、ランニングコストも相当なものだろう、などと余計な心配もしてしまうが・・・。

ホテルの45階からの展望は太平洋が一望できるかのような素晴らしいもので、また、フェニックスも足元にみえ、何組かがプレイしていたが、バンカーが砂煙で霞んでいる所が、おそらく松戸のメンバーのいるところなんだろう。.


皆がコースを廻っている間、藤原君の運転手さん、湯地さんがゴルフをしない小生のために、相手をしてくれることになった。
以前は観光バスを運転していたからか、観光地についてもよくご存知で、本当に親切に説明をしてくれるが、日本で一番難解といわれる薩摩訛りが強く、時々聞き返すこともあるが、これも旅の楽しさだ。

まず、宮崎の新名所「シーガイア」の「ホテル オーシャン45」にいく。
45階の展望台に昇れば、足元に松戸のメンバーのプレイを観ることができるはずである。

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綾町・綾城

黒田官兵衛の福岡、加藤清正の熊本、鍋島の佐賀、島津の鹿児島、大友の大分、そして馬の殿様の国際都市長崎。九州にはいずれもかつての旧藩を代表する藩主がいる。

宮崎を代表する藩主は飫肥(おび)を城下とした伊東家とのことだが、その伊東氏は蘇我兄弟の敵役、工藤祐経の子孫だそうで(ちょっと運が悪い)、関ヶ原の40年ほど前に島津に敗れて、領地は島津の勢力範囲に入ってしまったそうだ。
九州の個性的な藩のなかにあって、宮崎はなにか藩主の印象がうすい感がするのも、そのあたりに原因があるのだろうか。(高鍋藩からは後の上杉鷹山が出ているが・・・)

綾には伊東氏の48城のうちの一つ、綾城があったのだが、島津の支配下になった後、江戸幕府の「一国一城制度」によって廃城となり、島津の地頭が統治したとのことである。

宮崎の西北西約20`辺りある綾町はこうした中世の歴史を持ち、また、日本一と言われる原生の照葉樹林の繁る山裾の小さな町であるが、この小さな町を一回りして見ると、こうした不運な(?)歴史を覆す意気込みで、「町おこし」のための観光政策を実行してきた「小粒だがキラリと光る町」といった感じだ。

綾城の復元
中世の築城調査をもとに、地元の若手大工のボランティアの協力のもとに忠実に 再現されている。


綾国際クラフトの城
「手作りの里」のキャッチフレーズで、 復元した城内で織物、染色、陶芸教室に力を入れている。



照葉樹林と大吊橋
日本一と言われる照葉樹林の山間にかけ た観光吊り橋。
長さ250m 高さ142m

名水百選の指定取付  そば焼酎雲海とワイナリー
そば焼酎「雲海」は全国的にも有名だが、 社長は宮崎RCのメンバーだそうだ。この観光ワイナリーは「雲海」の経営で、温泉もあり、また地ビールも作っており、多くの観光客の集まる名所になっている。

商工振興会の経営する無農薬食品店
観光客だけでなく、町民も大勢来る日常店であり、鮮魚以外はなにから何まで揃っている。

綾町長の上記の施策が、初めて訪れた旅人にも、きらりと光るなにかを感じさせるのではないか。
民間、行政と一致協力しての行政が、ゆっくりでも、着実な成果も生んでいるように感じた。
派手さはないが周囲の風景とのバランスを取って整備されていて、無理な開発による楽屋裏の汚らしさもない。

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高岡町・天ヶ城

綾から東南東へ10`で、綾と宮崎の中間に位置する高岡は、綾とは異なり、早くから島津の勢力下にあった町だったそうだ。

関ヶ原で敗れた西軍の島津義弘が、薩摩に脱出する際に高岡を通る時、伊東の重臣は「今こそ伊東の旧領を取り戻す時」と兵を挙げたが、島津はこれを食い止め、鹿児島にたどり着けたという。
その後島津は、国境警備の必要から高岡城を築き、城下に武士を移住させ、薩摩式の「郷」とした。

後にはここも一国一城制により廃城となったが、高岡市がその城址に「天ヶ城歴史民族資料館」としてつくったのが、いわゆる「天ヶ城」であるが、前述の綾城が、当時の山城のままに復元したのと異なり、白壁、白亜の天守閣を持つ「観光城」としたせいか、なんとなく軽い感じがする。

指呼の間の伊東の綾と、島津の高岡。
どちらが先に仕掛けたのかわからないが、互いに城を築き、今も鎬を削っている。
高岡教育委員会のパンフレットにも、綾に負けるなの意気込みが感じられる。
資料館には明治の海軍軍医官で、航海中のビタミン不足から来る脚気を食餌療法によって絶滅し「ビタミンの父」と呼ばれる高木兼寛という医学者が高岡の偉人として、大きくが取り上げられてる。
高木兼寛は慈恵医大の創始者だそうで、その遺訓は「病気を見ずして病人を見よ」。

帰りに天然記念物の「月知梅」という名の、一株の幹が地面を這って四方に繁殖したという梅の木の林を通る。
桜の前、梅の満開時に、この梅林で一杯やるのもよさそうだ。

ビタミンの父 高木兼寛
“病気を見ずして病人を見よ”
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西土原(さいとばる)古墳
九州では原は「ばる」と発音する。
南北2キロ東西4キロの、ところどころに畑もあるなかに、土饅頭のように土を盛り上げた大小さまざまな古墳が 300もあるそうだ。
内部の発掘をしたのは数個だそうだが、暴くのではないんだから、調査くらいはもっとやってもいいんじゃないか。
いろいろなものが出てきて面白くなるはずだが、なるべく秘密のものを残しておいて、耶麻台国論争を継続させる宮内庁の仕掛けか?

この国のディスクロージャー嫌いは、「この世」のものだけでなく、「あの世」のものまでだ。
人気のない野原の真ん中に未調査の古墳が 300も集まっているのは、ロマンチックであると同時に、ちょっと不気味である。
夜になると古代人が蘇って、ところどころで集会をしているんじゃないか、などと想像してしてしまう。
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うなぎ 「入船」

昼飯は観光案内に出ている「入船」という店のうなぎ。
旅先の名物を食べることは旅行の最大の楽しみである。

静かな田舎町の、ごく普通の食堂風のうなぎ屋だが、明治32年の創業だそうで、いまも地域の案内のトップに書かれているということは、それなりの理由があるに違いない。

「11時半までにはいかないと、並ばなければ入れませんので」、と湯地さんが車を飛ばしてくれる。
店は西土原(古墳群のある町)の南方神社の前にあり、神社はそれほど流行っている様子でもないのだが、店はすでに八割がたの客で埋まっており、うなぎのできるのを待っている間にすぐに満卓になった。

かつては「神社の前のうなぎや」だったのだろうが、いまはうなぎ屋の前の神社のようだ。
さして人がいるとも思えない「町」で、この店一杯の客は、一体どこから来るんだろうか?不思議なほどの客の入りである。

うなぎは蒸さずに、直に焼いてあるものだが、それはそれなりの味で、 1,600円の定食で、肝焼きと「ご汁」が付く。
都会の味付けはうす味だが、地方へいくと濃口、甘口になる。
この店独特の「ご汁」もふくめて、地方色豊かな味で大満足した。
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航空自衛隊・新田原(にうたばる)基地

石川県小松と並ぶ航空自衛隊の第1線基地で、日向灘を射爆訓練空域としている。

ベトナム線で活躍したF4ファントム(F4J)が2機、編隊離陸したのち、一機づつタッチ・アンド・ゴー(接地と同時に再び離陸)の訓練をしていた。
ファントムの編隊が目の前で離着陸するのを見るのは初めてだ。
なかなかの迫力で、マニアらしき人が望遠レンズで撮影していた。でも毎年何機か墜落するとのこと・・・・

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初めての宮崎

元寇の役、そして屋台とラーメンの福岡
加藤清正と熊本城の熊本
焼物、鍋島猫騒動と葉隠、そして最近の吉野里の佐賀
島津、明治維新、そして西郷さんの鹿児島
大友、そして福沢諭吉と最近は一村一品運動の大分
国際都市長崎・・・・・・

良港に恵まれた地域という幸運もあって、独自の藩史のなかで、中世から攘夷、維新まで、さまざまに躍動してきた九州の藩のなかで、宮崎は全九州を上げての西南戦争においても印象が薄い。

そうした日向の歴史の中で、西洋思想に対峙するべき日本の国家の基軸思想を、古事記・日本書紀と天皇家に設定した明治新政府の方針を引き継いだ昭和は、宮崎県を日本の「精神的国家基軸の象徴的地域」として、強引に位置づけたのではないだろうか。

しかしながら、日本の国家基軸精神そのものは、明治以降の国策の性急さ、強引さ、そして昭和の国際感覚の欠如によって、昭和20年、消滅させられてしまった。

古代、中世そして近代、現代のそうした歴史の経緯の中にあって、この地域の戦後は 「 観光立県 」 として新婚旅行のメッカを創造し、フェニックスの名を知らしめ、さらにゴルフの宮崎、そしてシーガイアと、試行錯誤しながらも賢明に自己確立に努力している。
一方で飫肥、綾、高岡のように、辛うじて繋がっていた人の歴史の細い糸を、結び合わせ、撚り合わせるようにして、再構築するべく励んでいるところもある。

九州の他県に比べ、藩の歴史の希薄な、また、それゆえか国策に翻弄されたかのようなこの地域が、さまざまに模索し、努力をしている様は、「天領 」 であったがゆえに藩主を有せず、「 一貫した町の在り方の歴史を持たなかった松戸の進むべき道にとっても、大いなる参考になるはずである。

(平成9年12月)

あとがき

松戸ロータリークラブメンバーの縁で、藤原君という知己を得、さらに藤原君を通して宮崎RC、そして宮崎についての新しい認識を持つことができた今回の旅行は、わずか48時間余の滞在ながら、通常の旅行地とは異なった感動を持って、今まであまり接することのなかった日本の古代史、および天皇についていろいろと考えるきっかけとなった、きわめて印象深いものでした。

考えてみれば、日本人でありながら日本史について、また、たとえ伝説とは言え、そして教えられなかったとは言え、天皇および我が国の起源について何も知らなかった自分を発見し、この年になって古事記・日本書紀に初めて興味を持ち、やたらに解説書などに目を通しはじめたところです。


そういう訳で、短時間のなかでの独断と偏見に満ちた宮崎観ですから、無知によるご無礼の個所、多々あるかと存じますが、お目を通していただき、ご指摘いただければ幸いと思います。宮崎県史は是非拝見したいものです。

突然のことにもかかわらずプランから案内までしてくれた悦ちゃん、藤原君、そして宮崎RCの皆さん、そして湯地さんに心から感謝いたします。
有難うございました。

(平成9年大晦日)

追記

  宮崎・・・うらなり君の転勤先 (夏目漱石 『坊ちゃん』より)
・・・
赤シャツの云うところによると船から上がって、一旦馬車に乗って、宮崎へ行って、宮崎から又一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。
名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
猿と人とが半々に住んでいる様な気がする。・・・・